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続けられる形を、人生の中に置く

  • raytsunoda
  • 1月4日
  • 読了時間: 2分

書き続けているうちに、

気づけば、少しずつ言葉の置き場所が変わってきました。

最初は、誰かの役に立ちたいと思って書いていました。


も今は、それよりも前に、

自分がどこに立っているのかを確かめるために書いている、

そんな感覚のほうが近い気がしています。


心や体の調子、日々の迷い、続けることの難しさ。

それらは、解決すべき「問題」というより、

人生と一緒に揺れながら付き合っていくものなのかもしれません。


だから私は、

何かを変えようとする前に、

立ち止まって確かめるための言葉を残してきました。


この第4弾では、

これまで書いてきた文章を振り返りながら、

「続ける」ということについて、

もう一度、静かに考えてみたいと思います。


これまでの三つの文章を、

あらためて読み返してみました。


それぞれ少しずつ違うことを書いているようで、

実は、同じ場所を何度も確かめているような気がします。


それは、

どうすれば、ちゃんと続けられるのか

という問いでした。


続けることは、

意志や努力の問題として語られることが多いように思います。


続かないのは、気合が足りないから。

習慣にならないのは、覚悟が弱いから。

でも、私はそうは思えませんでした。


心や体の状態は、日によって揺れます。

環境や出来事にも、簡単に左右されます。


その中で「毎日同じようにやる」ことを求めるのは、

少し無理があるように感じていました。


だから私は、

がんばって続ける方法ではなく、

無理が生まれにくい形を考えるようになりました。


完璧にできなくてもいい。

できない日があっても、やめなくていい。

「今日はこれくらいでいい」と思える余白を、

最初から用意しておく。


そうした形なら、

続けることが、

人生の負担にはならないかもしれない。


私が大切にしたいのは、

何かを達成することよりも、

日々の中に、そっと置いておけることです。


調子がいいときだけ役に立つものではなく、

うまくいかない日にも、

「戻ってこられる場所」であること。


無理なく続けられる形を、

日々の中で整えていく。


それは、前に進むためというよりも、

人生の中で、自分が安心して立ち戻れる場所をつくる、

そんな感覚に近いのかもしれません。

 
 
 

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